西村一広氏「Les Sables–Horta–Les Sables 復路参戦記」
Les Sables – Horta – Les Sables
往復ダブルハンドレース 復路参戦記
記:西村一広
険しいレース参加への道 厳しい関所その1
メディカルチェック
JORA代表の北田浩氏がスキッパーとして参加したLes Sables – Horta – Les Sables往復ダブルハンドレース(2017年7月2日〜22日。ヨット専門誌Kazi 2017年12月号126-129ページ参照)。
往路のレサーブル→オルタのコ・スキッパー(副スキッパー)としてJORA期待の若手セーラー志賀翔太君が乗ることは、比較的早くから決定していた。しかし復路のオルタ→レサーブルのレグに、コ・スキッパーとして乗るのは一体誰なのか? 今年2017年シーズンとそれ以降のJORAの活動について綿密にアイディアを練っている北田氏の頭の中には、何人もの候補者がいるようだった。
自分がそれに乗ることになるのかも、という雰囲気を感じ取ったのは、確か今年のゴールデンウイークが明けてしばらくした頃だと記憶する。
今年のスケジュール帳を改めて見てみると、5月中旬から複数の医療機関の予約関係のメモが突然のように増えてきているから、おそらくその辺りの時期にLes Sables – Horta – Les Sables往復ダブルハンドレースの復路に自分が乗る可能性が高くなったのだろう。
さて、なぜレースに出る可能性が高まったことと病院通いが関係しているのか?
日本ではまだあまり考えられないことだが、ヨーロッパでは長距離外洋レースの参加資格に『専門医のメディカルチェックをクリアしていること』という条件が加わるレースが多い。そしてそのレースが、シングルハンドレース、ダブルハンドレースといったショートハンドであればあるほど、レース距離が長くなればなるほど、クリアすべき検査の厳しさが増す。身体に、特に心臓と頸動脈に、少しでも異常が認められる選手は外洋ヨットレースには参加させない、というのがヨーロッパ文化圏のヨットレースオーガナイザーが打ち出している強い姿勢だ。
レースドクターからの指示に従い、JORA本部の清水さんとフランスJORAスタッフ、パトリッツィアさんの助けを借りて、しかるべき医療機関に行って検査を受ける。そして、そこで発行してもらった専門医のサイン入りの「異常なし」の診断書をレースドクターに届ける。
レースドクターから別の専門医で別の検査を受けるよう指示が来る。
別のしかるべき医療機関に行って検査を受ける。
「異常なし」の診断書を清水さんとパトリッツィアさん経由でレースドクターに届ける。
レースドクターから追加の検査を受けよという指示が来る。
また別のしかるべき病院に行って検査を受ける…。
この繰り返しが1ヶ月以上も続いただろうか。
その後、自分のメディカルチェックは、復路の選手エントリー締切りギリギリになってやっと認められた。
おかげで、自分の心臓と頚動脈は、エコーやらCTスキャンやらMRIやら負荷心電図やらで、徹底的に検査され、それぞれの専門医から異常なしの診断をいただき、心臓と頸動脈については自信を持つことができた。そうだった、レースドクターからの指示はなかったが、少しヤケになって、ついでに脳のMRIも受けて、脳の血管の塞がり具合もチェックして、異常なしの診断も、もらったのだった。
この時期のスケジュール帳を開いてみると、それら医療機関の予約メモでいっぱいだ。その頃は右肩を別のスポーツで痛めていたので、メディカルチェックの病院通いのついでに、新宿の整形外科医にも通っていた。こちらもありがたいことに6月下旬には完治した。
まだ日本を出る前なのに、Les Sables – Horta – Les Sables往復ダブルハンドレースの参加資格を得るための要件として立ちふさがったメディカルチェックという高い壁は、JORAスタッフの皆さんのサポートによって、こうしてなんとかクリアすることができた。
険しいレース参加への道 厳しい関所その2
World Sailing講習参加義務
欧米の、ある程度本格的なオーシャンヨットレースでは、登録クルーがWorld Sailing講習に参加したという証明書を持っていることを条件にしているレースが多い。
日本ではシドニー〜ホバートレースがこれを条件にしていることが知られているが、これはシドニー〜ホバートに限ったことではない。このLes Sables – Horta – Les Sables往復ダブルハンドレースも同様で、参加クルー全員(2名だけど)がこの講習受講証明書を持っていなければならない。
往路に乗る北田スキッパーは昨年に、志賀君は今年3月にフランスのロリアンで受講していたからその資格はすでに獲得していた。
問題は自分である。5月の時点ではまだWorld Sailing講習に参加したことがなかったのだ。
World Sailing講習は、フランスでは毎月一度程度、木・金・土の3日間の日程で行われている。そこでの公用語はもちろんフランス語で、講義も実技もフランス語で行われる。もし受講するとなれば、JORAのサポートを受けて、日本語、英語、フランス語がペラッペラのイタリア人、パトリッツィアさんか、フランス語ペラッペラの日本人、清水さんに通訳していただかなければ講習内容を理解することはおろか、受講申請手続きすら困難を極めることになる。
しかも、前述の、メディカルチェックをクリアするための病院通い騒ぎで、6月開催の講習に合わせて渡仏することは不可能になった。そうなると、レサーブル・オルタ往復ダブルハンドレースの復路がスタートする7月14日に間に合うタイミングで受講しなくてはならず、ロリアンでの7月6〜8日に開催される講習が、自分にとっては最初で最後のチャンスになる。
その前の週の7月2日に、北田スキッパーと志賀君はすでに往路スタートを切っている、そんな際どいタイミングだ。
7月6日から始まったWorld Sailing講習は、とても刺激的で興味深い内容で、興奮して、心底この講習を楽しむことができた。JORAの清水さんが隣の席に座って分かりやすく同時通訳してくれるので、まるで日本語で講習を受けているかのように、フランス語による講師の話がスルリ、スルリと頭の中に吸い込まれていった。
この安全講習に関係する詳しいレポートは、このJORAのウエブサイトでも近い将来掲載することになるかと思うが、3日間の講習期間中、まったく退屈することはなく、ものすごく集中して受講することができた。ヨーロッパのセーラーの、海でのサバイバルに対する意識の高さを、知識と技術のレベルの高さを、強く肌で感じ取ることができた。
自分を含めた日本人セーラーは、オーシャンヨットレースに出ようとするときに、海で出会う可能性の高い『危険』について、自分の命を自分の責任で守らなければならないということについて、彼らヨーロッパ人のように、高くて強い意識を持っているだろうか?
一緒に乗っている誰か他の人や、外部から援助の手が差し伸べられることに、知らず知らず頼ってはいないだろうか?
乗っていたヨットが沈んでクルーみんなで助け合いながらライフラフトに乗り移り、ヘリコプターが来て、それに吊り上げられて救助されるまでを、サバイバルスーツに身を包んで、大型のプールの中で泳ぎながら疑似体験する実技メニューも組まれている。
様々な原因で起きる船火事の燃え方を実際に見て、それを消火する実習もする。
心臓発作で倒れたクルー仲間に対する処置も全員が実技でファーストエイドを施す訓練もある。
それらの実技講習を受けていると、安易な気持ちでヨットレースに乗ってはいけないのだ、という意識が今更ながら強く湧き上がってくる。
自分にとってこの講習は、Les Sables – Horta – Les Sables往復ダブルハンドレースに出るために受講することが必要な、少し面倒な関門の一つでもあったのだが、受けてみると、とても価値のある講習であることが分かった。
このWorld Sailing講習を受講するにはそれなりに費用がかかる。
現地まで足を運び、アコモデーションも手配しなければならない。個人でこの講習をフランスで受講しようとしたら、 JORAのサポート費用と比較にならない程の高額な通訳費用が必要になることだろう、フランス語で行われる受講手続きも簡単ではない。
少なくとも自分の場合は、JORAという組織のサポートがあって初めてこの講習を意義深く受講することができた。そのおかげで、オーシャンヨットレースというスポーツをリスペクトするセーラーなら必ず、このような高いレベルの安全講習を受講する必要があると強く思うことができた。
選手登録案件をクリア
晴れてポルトガル領アゾレス諸島ファイアル島へ
World Sailing講習をすべて受講した翌日の7月9日。
ロリアンを後にしてLes Sables – Horta – Les Sables往復ダブルハンドレースの、往路フィニッシュ地であり復路スタート地であるアゾレス諸島ファイアル島のオルタに向かう。
ロリアンからパリに出て、オルリー空港からポルトガルのリスボン経由でアゾレス諸島サンミゲル島のポンタ・デルガダへ。そこでプロペラ機に乗り換えてファイアル島のオルタに到着。この移動も、JORA本部の若い清水女史におんぶにだっこ。ただ彼女に着き随っているだけで、ロリアンを出発した翌日の7月10日午後7時前、大西洋の真っ只中の小さな島に降り立った。
北田浩・志賀翔太の往路コンビは、この日の午前1時過ぎに、後ろに数隻を従える健闘の順位で往路のフィニッシュラインを切っていた。ホテルでこの二人と、コーチのジャンとパトリッツィアさんと合流し、空路オルタ入りした我々2名を合わせた6名全員が揃って、往路フィニッシュお疲れ様会夕食を楽しんだ。
翌日から、往路で健闘した二人もレース疲れを癒す暇なく整備作業に参加。自分はセールを片付けたり簡単な修理などをしながら、<貴帆>のことを思い出す作業に入る。
「思い出す作業」とは何か?
実は自分は、<貴帆>できちんとセーリングしたのは、昨年2016年4月に乗艇したロリアンからサンマロまでの回航と、サンマロから英国プリマスまでの、プレレースの、それぞれワンオーバーナイトの経験しかなく、それから1年以上も<貴帆>から離れていたため、その記憶も薄れ、しかもその間に変更された装備もあったりもした。思い出すというよりも、3日後の復路スタートまでに、<貴帆>のことをほとんど最初から学び直さなければならなかったのだ。
その日からスタートまでの3日間は、できるだけ<貴帆>にいる時間を長くして、デッキ、コクピット、キャビン内、マスト、セールなど、<貴帆>に触り続けることを心がけた。
レースの食料とミネラルウォーターの買い出しは、ジャン、パトリッツィア、清水さん、志田君がすべて段取ってくれ、気象情報に関連したナビゲーション的作戦については、北田氏とジャンが周到に準備していた。
自分は、各セールをチェックしたり、パックし直したり、使用レンジをイメージしたり、メインのリーフ作業や各種ヘッドセイルのファーリング作業、セット作業、取り込み作業などを、デッキの上で繰り返しイメージトレーニングしたりすることに集中できた。もちろんその合間には、デッキに座って水を飲みながら、アゾレス諸島名物の、特異な形の火山、ピコ山を眺めて楽しんだりもした。本土からは遠く離れているが、ポルトガル領の中でもっとも高い山なのだそうだ。
アップウインドスタート
3日間、北田スキッパーとともに体調を整え、7月14日午後5時に気持ちよくオルタ沖のスタートラインを飛び出す。
アップウインドになったスタートは、自分が舵を持たせていただいた。
ストレートラインを高速で走るクラス40は、オープン60やクラスミニ6.50のようにツインラダーを持ち、適正なヒール角でセーリングした時に風上側のラダーが水面上に出るように設計されるため、ラダーの深さは結構浅い。そしてなおかつマストは通常のヨットよりも後ろ目に位置している。それなので、ジブを開かずにメインセールだけでトロトロ走っているスタート前などは特に、タッキングの後は結構多めにメインシートを出さないと、ラダーが効かずに操舵不自由に陥る場合がある。
スタートラインとスタートでは、このことに気を付けつつ、かつ、クラス40のコミュニティーにおける<貴帆>の「愛されキャラ」にダメージを与えないことに気を配った。クラス40コミュニティーに昨年新入りした<貴帆>は、北田スキッパーの気配りによって、いつの間にか多くの先輩クラス40セーラーたちが援助の手を差し伸べてくれる「愛されキャラ」を獲得している。
シングルハンドレースやダブルハンドレースのスタートでは、全艇が人手不足状態なので、マッチレースやフルクルーのレースのスタートのように、ルールを駆使したややこしい動きをする艇がいると、無用な混乱を生じてしまうし、危険でもある。「愛されキャラ」としてははそんな原因を作ってはならない。
スタートしてそのまま左に伸ばしたいのだ、という意思表示で風上側から突進してくる艇の進路を邪魔せずにそのまま行かせ、スタート前からの計画通り早めにタックを返して、広い右海面を先に走る。ウオータータンクに水を入れてもいいようなコンディションだが、ポートタックの間は、念のためにそれも控える。ここは安全第一だ。
スタート後2時間。
スタート前日からの北田スキッパー、コーチのジャンとの打ち合わせ通り、2、3日後に250マイルほど北を通過する予定の低気圧に向かって、スターボードタックで北上を開始している。
なんか、ちゃんとフリートの、少なくとも前半分には入っている感じ。
ま、こんな感じでいきますか、と北田スキッパーと話す。
最初の夜に、途中経過で1位に出たこともあったようだが、周囲に見える航海灯に比べてスピードが劣ってはいないが、優っている訳でもない。スピードがある時にも、スピードがない時にも、その理由がわからないもどかしさがある。クラス40の経験と勉強が足りないことを痛感する。
北田スキッパーのナビゲーションに従って、できるだけスピードを維持しつつ、北への距離を伸ばす作戦を続行。
2晚目の大失敗
スタートの翌日には、予報通り風が落ち始めて風向も不安定になって来た。レースフリートはかなりバラけてきたが、全体として北に向かって、低気圧通過予想緯度を目指している。風が不安定ながら後ろに回り始め、ジェネカー(かつてのコードゼロをクラス40ではジェネカーと呼び、かつてのジェネカーはAセールなどと呼ばれることが多い)やAセールを揚げたり降ろしたり張り替えたりが続く。
2晚目が明けて、パソコンの画面でレースフリートの位置を見てみると、<貴帆>は大きく遅れを取っていた。前日の夕方からこの日の朝方にかけて、ジェネカーの選択を間違えてばかりいたのだ。自分の責任だ。
これはレースの後半になって学んだことだが、風向と風速の変化が大きかったその2回目の夜、自分はミディアムジェネカーを挙げるべき時にA2を揚げ、A2を挙げるべき時にミディアムジェネカーを揚げた。そのことで、トップ集団から挽回できないくらいの差をつけられた。
これは世界トップクラスのオーシャンレーサーが参加しているダブルハンドレースなのだと、改めて思い知った。
天気図が海図上にオーバーレイして、<貴帆>の最適コースが示されるナビゲーションソフトの「Expedition」の画面を見ると、北上するフリートの一番前を走っている艇から順番にいい風が入って来て、トップ艇団と後続グループの差は、どんどん広がっている。
結果から言うと、復路の大局はここで決まってしまった。気象予想のヨーロッパモデルも北米モデルもほとんど同じで、しかもそれが見事に当たり、最初の北上競争に取り残された艇は、その時点ですでに勝ち目はなかったのだ。
トップ艇団が所期の緯度まで到達して、コースを90度くるりと東に転じて、フランス沿岸に向かって怒涛のブロードリーチングで走り始めた後も、「Expedition」は我々に、トップ艇団と同じような緯度まで北上を続けてから東に転進するよう指示した。
確かにその時点での、フィニッシュ予定の日時までの風予想が当たる限り、それが<貴帆>が最短時間でフィニッシュラインに到達できるコースなのだろう。しかしそれでは、<貴帆>は自分のコースレコードは作れるだろうが、レースの順位を挽回することはできない。先行艇はその緯度まで到達した艇から順番に、まるでロケット台から発射されたような勢いでスピードに乗って東に向かっている。<貴帆>が北上している間に、先行艇団からさらに差をつけられることだろう。
北田スキッパーと十分に話し合い、先行艇団が受けている風と自分たちが受け始めている風の違いを分析し、「Expedition」が指示する緯度に到達する前に、東へと転進することに決定した。実際の強風域が、気象モデルよりも南下する可能性に賭けて。
こうして書いていて、「賭ける」とはなにごとだと思う。
ヨットレースの教科書に照らし合わせても、すでに<貴帆>が勝つ可能性は少ない。レースで「賭け」をしてはいけないのだ。賭けるしかないようなこの状況に陥ったのは、何日か前のセール選択のミスであり、それは自分の責任である。
最後まで来なかった逆転のチャンス
少しにがい思いを胸に、ヨーロッパ大陸に向かって東に進み続ける。しばらくは人間の勝手な振る舞いに怒っているようにみえた「Expedition」も、再び気を取り直したかのようにウエザールーティングに基づいたコースを指示し始めた。
<貴帆>も23〜25ノットの風を受け、15〜17ノットの艇速でセーリングしているのだが、北のほうではもっと強い風が吹いているらしく、そこにいる艇群は我々よりも常に1ノット、2ノット速いスピードで離れていく。コンスタントに1ノットの差があれば、1日に24マイルずつ遅れていくわけで、これではまったく手に負えない。
それと、レースをしながら気がついたもっと重要なことがある。
ダウンウインドセールにしても、メインのリーフにしても、例えば風が少し落ちたりすると、トップ艇団のセーラーたちは間髪を入れずに大きいセールに替えたり、リーフを1段解除していた。
それに対して自分などは、本当に風が弱くなったのか、もう少し見極めましょうという理由で、後になって思うと、即時に必要だったセールチェンジをワッチ交代までの1時間か2時間延ばしたりもした。必要を感知するやいなや即セールチェンジをするのと、ワッチ交代まで待つのでは、それこそ距離にしてひとワッチ3時間で2マイルや3マイルの距離がすぐについてしまう。
この積み重ねが、今回のレサーブル・オルタ往復ダブルハンドレースの<貴帆>の復路の順位になったのだった。
今回のレースは、自分としてはスタートから北田スキッパーとのコンビネーションもよく、艇の上ではまったくストレスのないセーリングができた。北田スキッパーのナビゲーションには全幅の信頼を寄せることができたし、デッキワークも、ほとんど2人での練習をしなかった割には、まあ、それが理由でそれぞれの作業に慎重に、多少時間はかけたが、トラブルもなく、順調にレースを進めることができた。そのことには完全に満足し、かつ北田スキッパーに感謝している。
レースを終えて
自分がレース中考えていた「トラブルなく完走することが大切」という言い回しは、自分の手抜きセーリングを自分が容認することに繋がったのではないか、と猛反省している。
ヨーロッパの一流のシングルハンドやダブルハンドのオーシャンレーサーたちは、フルクルーでのレースに限りなく近い精度で、限りなく近い完璧さでセーリングし、かつ、寝る時間を惜しんで、高度なレーシングナビゲーションをしている。
これが、今回のレースで、先行艇のレース展開を地団駄踏みながら観察して、身に滲みて学んだことだ。
彼らは、必要なときにはワッチの時間に関係なく オールハンズ、もしくはシングルで、タイムラグなく、もっとも適切なタイミングを逃さず、セールチェンジなどの作業をしているはずだ。
今回のレースで学んだことを、できるだけ早い機会に、JORAの活動に役に立つ形でフィードバックしたいと願っている。
西村一広
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