日本-パラオ親善ヨットレース参戦記
皆さん、こんにちは。
2019年末から2020年初にかけて横浜港からパラオ共和国への第1回日本-パラオ親善ヨットレースで見事総合優勝を飾られたテティス4のオーナーでJORA理事の児玉氏によるレポートが届きました。レース準備からレース中のトラブルの対応など、オーシャンレースに臨むセーラー、チームにとって非常に興味深くとても参考になるレポートです。お楽しみください!
文:テティス4 児玉萬平氏
我々テティス4チームは昨年12月29日横浜港をスタートし1730マイル離れたパラオ共和国コロール港に向かう、第1回日本-パラオ親善ヨットレースに参加、幸いなことに総合優勝を果たすことが出来ました。
今回は参加に至る経緯とレースの様子を紹介し、改めて優勝の喜びを噛みしめたいと思っておりましたが、現在(2月10日)、本稿を書くにあたり、多少複雑な思いで連日報道されるメディアを見ております。中国武漢を発生源とした新型コロナウイルスの感染が急速に拡大し、中国・アジアの渡航が制限されクルーズ船の寄港が制限される事態になりました。テティス4は今、パラオ共和国コロールのロイヤル・ベラウ・ヨットクラブの係船ブイに他のレース艇とともに次の寄港地に向け出港を待っているところですが、果たして問題なく目的地に向かえるのか、はたまた大きく計画を変更して帰国の途に就かざるを得ないのか、様々なオプションを念頭に描きながら事の推移を見守っています。現在も未だ来月初めのパラオ出港を控え、行き先が定まらない状況が続いています。
事の始まり
パラオレースへの参加を決めた話の発端は、以前投稿したサバイバルトレーニングの様子をお伝えした記事中でも触れさせてもらったが、2年ほど前にクラブハウスでのとあるパーティの席で元葉山マリーナ専務の渡辺康夫さんと「2020年のロレックス・チャイナシーレースに出ようじゃないか」今や国際的なクラシックレースとなったこのレースの第3回大会に日本艇のデザイナー・艇長として参加した親父さん、渡辺修治さんが果たせなかった完走、あわよくば入賞も狙おうじゃないかと、酒を飲んで盛り上がったことからだった。
その前年の2017年の英国ファストネットレースに24年ぶりに日本艇として出場した「貴帆」のクルーとして参加したおり、テティス4の同型艇である多くのファースト40.7や同シリーズの42.7が参加し、案外と良い成績を収めていた。最新艇とは言えない艇がどのような準備をし、どう戦うのか、フィニッシュ地点のプリマスに集まった同型艇に乗り込んでいって直接話を聞くことが出来た。
その詳細は割愛するが、彼らから多くの啓示を受けた私は、自分の艇でも試してみよう、その上でロングレースに参加し、彼らが目指したパフォーマンスを味わってみたいと思い始めた、それがチャイナシーレース挑戦の伏線だった。
昨年来、セールプランを見直し、スピンからジェネカーへの変更、バウスプリット新設、ジブエリアの削減などに手を付け、IRCでは約2.1%のレーティング低下を図ったが、その反面、軽風やランニングの走りは犠牲とせざるを得なかった。
そんな中、外洋三崎会長の「トレッキー」オーナーの新田氏から日本-パラオ間のレースを開催する企画がある、参加してくれないかという打診をうけた。当初、彼は大量遭難事故で中断していたグアムレースの復活を目指していたが、現地受け入れの体制が整わないなどの理由で断念していたところ、パラオレースの企画がにわかに現実化し、かつ日本-パラオ両国政府間や他の機関の支援が得られることから、その実現に奔走、様々な紆余曲折を経ながらもとうとう実現にこぎつけてしまった。
行きがけの駄賃?とんでもない・・
開催時期はチャイナシーレース2020の3か月前、我々からすれば、どうせ香港に船を運ばねばならない、行きがけの駄賃に参加しよう、などと軽いノリで答えていたが・・その実、徐々にこれは大変なレースだ、重大なトラブルにどう対処するか、救助はまず来てもらえない、立ち寄る島も無く、航路からも遠い誰もいない海域を走り続けなければならない、ということが実感として込みあがってきた。実行委員会側も当初の公示を変更し、特別規程(OSR)の適用をカテゴリー1に格上げ、通信手段、動静把握なども準備し万全な体制を組むことになった。
元よりチャイナシーレースはカテゴリー1で開催されるので、日本-パラオ親善レースに要求される装備や規則は同一なのだが、実際の準備は相当異なるものになる。例えば予備燃料の搭載量は自ら決めなくてはならない。仮に陸地から最も遠い地点でディスマストしたら、そこから風下の沖縄までジュリーリグとエンジンで600マイルは自ら走り切らねばならない、そのため、今回は370ℓの軽油を積むことにした。どんなに沖を航行していても一昼夜も走れば国内の港に逃げ込める沖縄-東海レース(全行程720マイルではあるが)なら半分以下の燃料で済む計算だ。
清水はOSRに規定される一人1日2ℓ、2週間分の224ℓとエマジェンシー飲料一人2ℓ(8人で16ℓ)の合計240ℓを搭載するのだが、今回は船内の固定タンクに280ℓの生活用水としての清水と、飲料としての水とお茶などの飲料を2ℓペットボトルで60本120ℓ、合計で400ℓ以上を積むことになった。生活用水の用途には、今回から使用することになったシャワートイレ用も含まれることになったが、その影響がどれほどであったかは把握できなかった。理由は、トイレの汚水を流すのに通常は電動ポンプで海水を汲みあげるのだか、レース前半、スターボーの上りのレグが続いたため海水の取り入れ口が水面上に出て汲みあげられず、止むを得ず清水シャワーの水を相当量使って汚水を流すことになったためだ。ペットボトルは5,6本ぐらいずつビニール袋に入れ床下に収納した。それでも6日目には固定タンクの生活用水が空となり、ペットボトルを20本費やしてタンクに給水した。レース終了時点では10本程度のペットボトルとエマジェンシー分8本が残った。
食料担当者は大変だった。8人が2週間、どのような海況で食事をするか、いろいろシミュレーションしながらプランを練ってくれた。レトルト、アルファ米、ロングライフパンを中心にして野菜ジュースや生鮮野菜など、サプリメントの提案などを含めて準備してくれた。パンはだいぶ余ってしまったが、最も受けたのは年越しそば用として最後に積みこんだ「どん兵衛」と年明け用にとメンバーが差し入れてくれた「おせち料理」だった。前者はスタート来の荒天にやっとの思いでお湯を沸かし、寒風に凍える身を温めてくれた。大晦日の大低気圧が過ぎ去り、徐々に穏やかになって日が差し始めた元旦の朝、「おせち」を肴にホームポート出港前に差し入れてもらった剣菱の一升瓶を傾け、最初の空瓶となった。酒は差しれのウイスキー(モルト、バーボン)、日本酒、焼酎、ラム酒・・と選ぶのに悩むほど、あわせてビールを4ケース分積んだ。分というのは、全ての缶を段ボールから出して大きなビニール袋に入れペットボトル同様床下に収納したからだ。
ところが、これが大問題を引き起こした。ビール缶が次々と破裂したのだ。レース終盤、フィニッシュまでの日数を勘案してビールの配給を考えようと在庫の確認に床下を開け、ビール缶に手を触れようとしたところ、缶の底から勢いよくビールが噴出した。持ち上げようとする缶が次々と音を立てて破裂していく様はあっけにとられる以外になかった。
スタート後の三日間で相当なビルジが船内に侵入したが、それがパンチングとローリングの激しいショックでビニール袋が破れ、ビール缶が海水に漬かり腐食が始まっていた。さらに揺れで内圧が高まったところで敢え無く破裂、損害は18本に及んだ。ということでフィニッシュ後の乾杯用ビールは6本のみとなってしまい、ビルジにまみれたビールの酷い臭いとともに喪失感を倍増させた。
ともあれ軽油、水、食料、酒・・900キロを超える搭載物と乗員8人540キロを載せ、スターンのオーバーハングが無くなるほど足の入った状態のテティス4はいかにも鈍重に思え、横浜スタート時の軽風の中では、この先どうなるのか・・と思えるような姿の走りを、多くの観覧艇に分乗して応援に駆けつけてくれた皆さんにお見せすることになってしまった。
準備と作戦
昨年の年初にはこのレースに参加することを決め、怒涛の様な準備が始まった。書き上げたTO-DOリストの項目は60以上にのぼり、日々項目が追加されていく様は途方もないキャンペーンを予測させた。
大きなところでは前述のレーティング対策としてリグの変更、具体的には最大ジブの面積を135%ジェノアから105%のNO2ジブに変更、スピンの艤装をバウスプリットとジェネカーに変更、ダクロンのメインとジブトップを新調した。前者は強風の中、頻繁に行うリーフと解除、それによって起きるシバ―に耐えられるよう、敢えてダクロン製のメインを選択した。ジブトップはチャイナシーレースに予想される長時間のリーチングに対応するための選択だったが、今回の、常に20ノットを超える風と2,3メートルの波高の中で、安定したフリーランには欠かせないアイテムとなった。結果として終盤の5日間、ジブトップを降ろすことなくフィニッシュまで走り切った。
コースの選択については、一昨年からデータを集めはじめたが、本格的にはスタート1か月前から外洋三浦会長の庄野さんにお願いしてルーティングソフトExpeditionのプログラムを数日おきに走らせてもらい傾向を掴むようにした。かつ風だけでなく黒潮の影響も大きいと認識していたので、風と潮を合成したシミュレーション結果を前提に選択すべきコースを検討し、スタート前日、前夜祭終了後のブリーフィングの席で最終方針を決定した。
パラオまでのラムライン上を正面から真っ直ぐ向かって来る黒潮(流軸で3kt以上)を避け、かつ大晦日に北海道を通過する大低気圧の影響を最小にするため、低気圧の中心から離れる様ひたすら南下するコースで、八丈島の東、ベヨネーズ列岩を狙うものだった。
実際は八丈島手前からは北西に向かう強い向潮に阻まれ八丈島の東には行けなかったが、レース序盤はほぼ作戦通りのコースが引け、レースフリートの中で最も南に位置することができ、結果としてここでの走りがレース全般を通じての貯金となった。
風向はスタート後2日目の朝から低気圧の接近前までがクローズホールドからクローズリーチで、あとは大体アビームから真ラン。10kt以下の風速はほとんどなく、弱い時でも15kt以上、貿易風帯に入ったら23ktから29kt、30°程度のシフトが頻繁にある、気の抜けない風が続いたレースであった。さらにはスコールが風と雨を運んできて、一気に30ktオーバーのバーストをくらうことがしばしばあった。事前の取材では「貿易風帯に入ったらルンルンだ、短パン・Tシャツの世界だ・・」と聞かされていたが、今回に限って(かどうかはわからないが)それは全くのウソ、数分おきにスプレーが叩きつけ、びしょ濡れになる、結局フィニッシュまで上半身はオイルスキン、下半身は短パンという出で立ちでワッチをこなした。
乗員とワッチシステム
今回の我が艇の乗員はテティス・シンジケートから私、伊藤、高木の3名、ロングレースにいつも乗ってくれている池田(元ファースト・オーナー)、鈴木(油壷ビターエンド・オーナー)、鎌田(浦安スパロー・オーナー)のベテランオーナー組、ロング売り出し中の西田、堤の8名が乗船した。
我が艇のワッチシステムは一般的にある半舷交代のワッチとは異なり、私を除く7人が1時間ずつ順番に4時間のワッチに立ち、最後の1時間舵をとって、3時間のオフとなるローテーションワッチを採用した。これならベテランだけでなく若手も同じように舵をとる経験が得られるからである。その代わり慣れていないヘルムスマンは同じワッチの先輩に時に怒鳴られながら舵を取る、最初はヘルムスマンが代わるとキャビンで寝ていても誰が舵を取っているのかわかるくらいヘタだったが日ごとに上手くなっていくのがわかった。
艇長兼ナビゲーターの私はワッチを外れて大方の時間はキャビンの中にいることになり、正直大変楽な思いをした。もっともアカ汲み専業ではあったけれども。
続くトラブル
これだけの距離と強風、そして波の中を長時間走ることは多くのトラブルを引き起こす。序盤、大低気圧から逃げるコースを選択したと言っても、ピーク時には40kt以上の風と5mを超える波となり、すべてのセールを降ろしてベアポールとした。それでも風下に向かって5ktで走る。そうした中、初めのトラブルは航海計器に起きた。コクピット前面にあるB&Gのプロッターの画面ガラスが割れ、タッチパネルが効かない、表示データが勝手に入れ替わってしまう現象も起きた。続いてマストについている3個のジャンボメーターが上から順にブラックアウトし始めた。この表示が消えると、それを頼りに舵をとるヘルムスマンにとっては大変都合が悪い、コクピットにあるメーターに複数のデータを表示させてそれを補ったが、大きなうねりの中でヘルムスマンには難しい操船を強いることになった。
次はスピンバースト。スタート5日目の1月3日の早朝、ジャイブを繰り返し南下していたが、まだ20ktには届かない風速の中にもかかわらず、永年の酷使に耐えられなかったのか、見事に破裂してこと切れ、廃棄処分となった。まだまだ長い行程の中なので、サイズの大きいジェネカー(A2)は温存することにし、コードゼロを上げ艇速を確保した。このコードゼロは今まで多くの強風のレースで便利に使ってきた信頼のセールだったが、7日目の朝、にわかに上り始め20ktオーバーとなった風の中でリーチ部分が裂けて今回の役割を終えた。
続いて起きたのがブーム損傷だ、8日目の1月6日夜明け前、徐々に暗さが取れていく中、「あれ?ブームに亀裂が入っているんじゃない?」との声、良く見ると確かに2cm程度の小さな亀裂がブームの上部に入りその部分から横に折れ曲がり始めていた。位置はブームバングの金具の上だ。おそらくブームバングにかかる繰り返しのストレスに耐えられなくなったものと思うが、直接の原因は不明だ。ブームエンドが波をしゃくった、激しいブローチングがたびたびあった等々考えられるが、要はブームバングを適時緩めることが必要だったのだが、ここまで長時間のレースとなるとそうした緊張のトリムを続けることは難しい。
メインセールによる圧力を減らすため、2ポイントリーフとしたり、ブームから外してフライングで張ってみたり、トライスルに変える検討もしたが、それらはいずれもレースをあきらめることにつながるものだった。この段階であきらめたくはないという思いからメインを2ポイントまでリーフした状態で様子を見ながら補強の仕方を考えることにした。
ブームの亀裂を発見してから一昼夜、1月7日の明け方には亀裂は徐々に拡大し、10cm程度にまでなった。この時点で残航360マイル、まだまだ先は長い。従前の様にスピンポールを積んでいるならそれが完璧な副木となるが、バウスプリット仕様としたためポールは降ろしてある。次に使える強度のある材料はと考えると、ドブ漬けした鉄製パイプの予備ティラーがあった。長さは1.5m、10kgほどの重量があるが強度は申し分ない。ブームを降ろして亀裂が入った個所の背中部分に予備ティラーを沿わせ、4mmのシートで締め上げながらラッシングしていった。この作業はなかなか上手く行って15分ほどで使用に耐えられる副木が出来た。それでも以降はジャイビングはせず、鉢巻タックで方向転換を行った。
ブーム損傷発見と同日の昼、今度はステアリングロープのトラブルだ。ブローが入り、続いて大きなうねりが来るとともに突然ブローチングを始め、ヘルムスマンが「舵が効かない!」と叫んだ。ブローが過ぎるとなんとか体制を取り戻せるが、ステアリング・ホイールが空回りする。ステアリングロープが何らかの原因でブロックから外れたか滑り始めたと判断した。こんな時はまずオートパイロットを起動、ステアリング系から独立させて操船し対策を考える。そもそもステアリングロープは新品に交換したばかり、ロープの初期の伸びを考えて頻繁にテンションを掛けていくよう指示をしていたものだった。デッキ下に潜って状況を確認したところ、ロープの左右のずれを押さえるセンターピンが外れていることを発見した。このピンの修復は一旦システムを全てバラしてからでないとできないので、この海況では対応が付かない。その時はできる限りの力を使って締め上げて滑りを押さえて行くしかなかった。
フィニッシュ、その複雑な思い
ブームの応急処置をした後、メインセールを2から1ポイントリーフまで上げて追走に掛かった。この一昼夜の遅れは痛いが、まだ挽回できる余地はある、先行するアルタイル3との距離の差が100マイル以内なら修正で逆転できる、がパラオに近づくにつれて風速が徐々に落ちていく予報、微妙な差になってきた。1月8日アルタイル3のフィニッシュ時間が知らされた。8日17時41分57秒。そこから何時間以内に入れば逆転できるか、頭の回転が極端に鈍った中で手計算を始め、その結果、翌日午前3時27分までにフィニッシュすれば良いということになった。
目標タイムを持った船上は相当盛り上がり、プッシュを掛け続けた・・と言っても手負いの状態でのプッシュにも限界がある、徐々に目標タイムに近づき、とうとうフィニッシュ手前のバーチャルマーク寸前でタイムアップとなった。残念な気分ではあったが、それでも、やれることはやったという満足感の方が大きかったし、目標としていたIRCクラスでは優勝できただろうという安堵感もあった。
旧日本軍が作ったというリーフを切り開いた水路に設定されたフィニッシュラインは極めて狭く、夜間にそこを通過する危険性を強く感じていた。そこでクルーにはフィニッシュラインを通過した直後、クイックターンをして来たコースを正確に戻り、外海に出て夜が明けるのを待つことを指示した。また、その考えをフィニッシュラインに待機するサポートボートにもVHF16chで伝えてからラインに向かっていった。そして未だ明けやらぬ9日午前5時43分03秒にフィニッシュ。
さて、ジブを降ろし、ターンをした・・と思った瞬間、ガツーン!とリーフに乗り上げた。その寸前にはNavionicsのプロッター画面で水路内であることを確認していたので、一瞬にわかには何が起きたかわからなかった。キールがリーフに何回かぶつかりながら離礁したが、11日間走って来て最後がこれか、と憮然とした思いが先に立った。
サポートボートに先導されて泊地に向かう。徐々に明けていく空に、パラオの深い緑の森の島々が見えてくると、とうとうここまで来たかという達成感も同時に押し寄せてきて、届かなかったという悔しさ、リーフに乗り上げたという憤り・・が絡まりあった複雑な思いで早朝のロイヤル・ベラウ・ヨットクラブ前の桟橋に集まったレース関係者の出迎えを受けた。
入管、税関、検疫の手続きを待つ間、最後に残った6本のビールで乾杯。何とか破裂せずに役割を果たしてくれた。上陸、揺れる、揺れる、陸がこんなに揺れるものか、と思いつつ差し入れのビールで再び乾杯。いくらでも飲めそう、などと思っているとファーストホームしたアルタイル3のスキッパー菊池透氏とオーナーの今村氏が現れ、「優勝おめでとう!」と声を掛けてきた。「エー、優勝はそっちでしょう」というとテティスが優勝とレースホームページに出ているよ、という。にわかには信じられずにいたが、しばらくしてネットにつながり情報を確認、ようやく優勝したとの実感がわいてきた。つまり、私の洋上での手計算が間違っていたのだ。逆に良い方に間違えてなくて良かった、と妙にホッとしたことを覚えている。結果としてPHRFでは約50分差、IRCでは5時間差で勝ったことになった。11日間走って1時間以内の差での優勝、どちらに転んでもおかしくない、これも外洋レースなのだ。
予定より2日も早いフィニッシュ、すぐに宿を手配してもらい、洗濯物をコインランドリーに預け、その晩は現地祝勝会となった。久しぶりにベッドでぐっすり就寝できる・・はずだったが小刻み睡眠になれてしまったのか全く寝付けず、致し方無く艇の酒蔵から降ろしたバーボンを一人飲みしながらレースを反芻していた。
後始末
翌日からは怒涛の修理対応に入る。
要修理項目は大きいものだけでも14に上った。よく壊したものだ。まだチャイナシーレースまでは先は長いので、現地でできるものは何とか滞在中に終わらせたいと考えた。
・先ずは大物、ブームの応急修理、少なくとも回航に耐えるようにしたい、と思っていたところ、地雷・機雷を処理する日本のNPO団体の現地スタッフ米田さんが、「小網代衣笠の鈴木オーナーからサポートするよう指示されたので来た」と声を掛けてきてくれた。現地事情に詳しい彼女らはすぐにアルミの溶接技術を持つパラオ唯一のエンジニアを探してくれて、何とか対応がつくことが判った。すごいネットワークがあるものだ。但し、お代は1000ドル・・仕上がりは満足のいくものだった。
・これもまた大きな課題、キール損傷の修理は現地では無理、次の香港で上架・修理の手配をした。一方、水中写真を撮って、帰国してからシーボニアのプロに見てもらった。サンゴが相手だけに相当ひどいギザギザ状態だがキールの構造には影響がないとのこと、一安心した。
・B&G航海計器、これもほぼ全損、現地での対応は無理なので、全て外して日本に持ち帰った。
・セールリペア(コードゼロ、ジブトップ)は香港ノースに損傷写真を送り修理を予約したら、すぐ見積もりを送ってくれた。早い!
・オーガナイザー台座がデッキの積層を壊して沈み込んだ。かのブーム修理のエンジニアが現場合わせで頑丈なパーツを作ってくれ対応が済んだ。
・両色灯(水没、不点灯)は後回し、回航前に対処することにした。
・ステアリングロープ再インストールは一日かけてクルー総がかりで実施した。
他にも細かい補修が多く残ったが回航の合間に対応することにした。
長い海外航海で心配なのが各国で規格が異なる炊事用プロパンガスの充填だ。念のため今回は3本のガスボンベを積んできたが、このハーバーの業者が日本規格も対応できることが判り早速お願いした。ものの10分で作業完了、これからの長い回航も一安心となった。
パラオ
こうした作業をこなしているうち、帰国まで数日となり、作業の残り時間にダイビング・スポットに行って潜ったり、観光ツアーや、ペリュリュー島の戦跡巡り、セスナの遊覧飛行を楽しんだりした。こういう場面では、以前にもクルージングでこの島に来ている伊藤望君がツアコン兼ドライバーとして大活躍した。
それにしてもパラオはお金のかかる所だ、今回は大統領の鶴の一声で船の入港税やクルーの入国税(100ドル)、一か月間の係留料(200ドル)は無料としてくれたが、自艇で行くにも関わらずダイビング・スポットに入るパーミット(許可証)を貰うのに一人50ドル、隣の州の観光地に行くのに15ドルと・・すべてのアクティビティーに税金がかかる。観光しか産業が無いこの国では、そうした徴税で国の財政を支えて行っているのだろう。
それでも、サンゴ礁の内側の静かな海面と、多くの島々と静かな入り江が点在するパラオの海はヨット乗りにとって最高の泊地だ。あわせてそのホスピタリティーと親日感情はこのレースの目的地として最高の場所であるに違いない。いや我々だけではない、そこここに各国のフラッグを掲げたメガヨット、大型カタマラン、30ft程度のシングルハンダーと多くの艇が停泊している様は、世界中のヨット乗りにとっても貴重な目的地だと言えよう。
問題は、飛行機で来るにしてもヨットで来るにしても金と時間がかかることだ。
そして我々自身は次の回航に向けて2月末に向かう予定だが、果たして再入国できるだろうか?それが心配だ。
【追記】
2月13日、ロイヤル香港ヨットクラブから正式にロレックス・チャイナシーレース2020の中止がアナウンスされた。
それを受けて、テティス4は来月3日パラオから八重山経由で那覇に向かい、4月29日スタートの沖縄―東海レースに参戦することにした。
キール、ブーム、その他の損傷をカバーできるか・・まずは時間との競争が待っている。
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